ある高僧の話、5歳の時に家庭の事情でお寺に預けられ出家、門前の小僧宜しくお経を覚え、多忙なお盆の時には小さな袈裟を付け一人で檀家の一部を廻っていました、その中の一軒では可愛いお坊さんが来てくれたと大喜びで、隣の部屋でごちそうの準備が始まっており、脇目をしながら読経をしていると、あらん事に赤ちゃんが米びつをひっくり返し,おしめがご飯だらけになってしまい、家族が慌ててそのご飯をおひつに戻して何もなかったようによそって、「さあ温かいご飯を召し上がれ」と進められましたが一部始終を見ていたため、「残念ですが本日は多忙で食べる時間がない」と丁重に断り一目散に逃げ帰りました、やれやれとんだ物を喰わされるところだったと安堵しました、その後数か月たってその家の法事に呼ばれましたが今度は食事の気配が全くありません、どうも先般の断わりが影響したものと思いながら、読経を終えた帰り際にご苦労様でしたとねぎらいの言葉と共に一杯の甘酒を出されましたので、それが大変美味しく何杯もお替りし、その後の家族の説明が奮っていた、「先日来てくれた時にせっかくの食事を断われた為にやむを得ずその残ったご飯で作った甘酒」だとの説明に絶句、そこで改め悟った次第、「世の中、一度逃げたつもりでも何回も形を変えて最後には必ず食わされる」という事を。